9/4(土)
サワラギ校正部さんの「個人のアウトプットが重視されて&本を作るのが簡単になっているため、自分の専門分野でないこと、勉強中のことを本に書く人、出版する版元が増えている気がします。」という指摘は重要だと思う。本を出すことが目的になり、内容は省みられない。みな、多弁だ。
9/3(金)
鶴見俊輔、長田弘『旅の話』を読み終える。「文化は商品になりすませない」という言葉に頷く。文化を取り巻くパッケージされた物語に自分はどう抗うか。そのためにも本屋から一度離れなければならない。
9/2(木)
現場の仕事がはじまった頃、太股が筋肉痛になっていたが、最近はあまり疲れない。大きくはなっていないが、ぎっしり繊維が束ねられたような感触がある。そして、足の指の稼働範囲が広くなっている。泥の中、重い荷物を持って踏ん張ることに特化した体になっていくのか。筋トレはしていない。
9/1(水)
畑、本屋、畑、本屋、畑。この両立の日々もあと少し。
本屋の出勤の日、感じたことのない疲れを感じるようになった。人と話すたびに戸惑う。違う言葉が話させれているようにまで感じる。
8/31(火)
きゅうり用ネット張り。作業中「鬼の首締め」という単語が出てきて驚く。
哲学、美的感性、合理は矛盾しない。天秤にかけさせようとする言葉の多いことよ。
8/30(月)
『悩む力 べてるの家の人々』を読み返す。切実に生きる、ラディカルに物事を思考していく行為のメタファーとして農業、とくに「耕す」ことが何度か挙げられている。自分にとってその繋がりを感じているか。考えていきたい。
8/29(日)
バターナッツをはじめて食べた。バターで焼いて塩を振る。ほっこりしているが爽やかな甘み。やわらかく水っぽいため煮物には向かない。ペースト状にするポタージュやスイーツが良さそう。個人的には好みの味。追熟の過程で味がどう変わるか確かめてみたい。固定種。名前だけ見て最近まで豆の品種だと思っていた。
8/28(土)
京都新聞書評『動物たちの家』掲載。子供の頃、飼っていたうさぎを思い出す。
8/27(金)
芥川賞選評にて、松浦寿輝が「小説で何をやろうとしているか」の重要性について書いているらしい。これは読まねば。自分が目指す先は農家であり、これまでのように「書くこと自体」に囚われる必要はない。では、なぜ書くか。書く必要があるか。どう伝えるか。はじめて創作そのものに向き合っている。編集者のNさんが店に会いに来てくれて、彼女と話すうちに、書くことに対し失いかけていた熱が戻った。不安をもたらす匿名の言葉より、なぜ身近な真っ当なひとの声を聴こうとしなかったのか。
8/26(木)
長雨もようやく終わり、久しぶりにじゃがいもの収穫。農業とは自然に左右され、常に時期を逸するもの。黄コンテナ9杯で180kg。何気なく、二杯持ち上げ往復していたけど、自分の体のどこにあんな力が隠れていたのか。覚悟を決めることから力は湧いてくる。
8/25(水)
植物や土、農業の言葉が比喩として用いられる作品が目立つようになってきた。この世界にあってその感性は正しいと思うが、そう書いている作家のうちどれだけのひとが実際に異種に触れ、ともに血や汗を流しているだろうか。嗅覚だけが鋭くなっていく。気難しい人間にはなりたくない。
8/24(火)
森田さんの『芸術新潮』の安野光雅に宛てた寄稿が良かった。「考えることは、遊ぶことに似ている」。辻まことの文章を思い出す。ひとが思い悩むのは切実に生きようとするからだ。切実さを欠いた人間は考えることを諦め、それを他人にも押し当てる。貧富の差や頭の良し悪しは関係ない。悩みを、苦労を真っ当に引き受ける器を育てたい。
尊敬する農家は、みな、美的感性と遊び心を持っているように思う。畝の端にダリアを植えるように。賢治が田んぼの真ん中にひまわりを植えたように。実益と遊び心は相容れぬものではない。